日常の「幸せ」を感じる時。
「おいしい物を食べた」「小さなラッキーがあった」「痛いのが治った」等々…ささやかな幸せで、日常はキラキラしているわね。=「嬉しい」ってことね。
その反面「嫌なことがあった」「負の気持ちになった」「病気になった」等々ドロドロしたものも、日常に渦巻いている…。=「哀しい」。
それはまるで風さんの新曲『HACHICō』のМVの黒い犬と白い神様?のようね。…風さんのМVはホント素敵。カッコイイのに癒される不思議。
わたしが、日常にはない「幸せ」を感じた時。…「嬉しい」とは違うくて。
それは滅多にないし、いつ訪れるかもわからないのよ。
6年前…浜省ライブが終わってひとりホテルに向かう途中、東京の新宿の高層ビル&都庁を見上げながら歩いていた時(夜10時過ぎ)。

4年前…コロナ禍で自粛時に、近場(三宮)のホテル泊をして日常から逃避し、夜散歩しながら街のライトアップを見た時。

骨折右手に挿入された金具を取り外す手術・入院が無事に終わって、自分のベッドで安眠し…目を覚ました朝。

数年に1度有るか無いかの幸福感。あれは一体何なのだろう…と自分でも思う。
それが、先日の『帰省』という名のもとの『夫婦高知旅』の際にも…あったのだ!
ホテルにチェックインしてから少し休んで、夕方6時くらいにふたりで散歩に出た。その流れで街中華の『豚太郎』で晩ごはんの予定であった。
…知っているようで知らない街をてくてく歩く。西に日が傾いている時間だが、晩ごはんの支度をしなくていい、何も急ぐことは無い。明日も仕事は休み。…それはあまりにも、いつもの日常からかけ離れたシチュエーションだったのだ。
わたしは何者でもない。何の心配もない。ただ冷やし中華を食べたいだけの。重たい荷物もない。とても心が軽い…。
この幸せな自分の有様(イメージ)を忘れないように、ホテルのメモ用紙に描いた。
これだ。⤵

わたしの「幸せ」は、解放だ。日常からの。(見てごらん、地に足も付いていないではないか。)
意味のないくだらないルール、約束、他人の意見、しがらみ、圧力(プレッシャー)etc. わたしを縛るものからの解放。
天を仰ぎ、解き放たれた時の自分は…とても強いのに気付く。
「なんにもこわくない」とさえ、思うのだ。
…でも大切な「日常」がある限り、この幸福感は滅多に味わえない。
死ぬ直前が、こんな気持ちだったらいいな。(そうかもしれないな。)
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