20年以上前の、職場(パン屋さん)での話。
わたしはパートを始めたばかりの34歳(今の、みのちゃんくらいね)。パートさんの中では1番年齢が下で、パン作り見習いのいわゆるペーペーであった。
社員さんの中に、タナカさんと言う定年前のおじさんがいた。静かな職人さんという感じで、笑うと顔がしわくちゃになる小柄なおじさんだった。でもパン生地を作るのは力仕事なので、腕の筋肉は長年のキャリアを語っていた。
タナカさんはもはや定年前だからか、わたしと年が離れているせいか、厳しくはなかった。…厳しいのは同じ女性パートの先輩方である。もたもたパンの成形などしていると、わたしの手の甲をそこら辺にある物差しやあんベラでピシャリと打つのだ。…痛くはなかったが怖かった。わたしは「え~ん…」と泣きまねをした。
休憩など作業場を離れる時、タナカさんが白いコック帽を脱ぐ。目をやると磯野浪平のような頭だ。帽子を被る仕事だと、男の人は髪が薄くなりやすいのかな…などと思う。
ある時、そんなタナカさんが忌引き休暇を取った。奥さんが亡くなられたと言う。きっと50代…まだ亡くなるには早い。…わたしはとても気の毒に思った。奥さんを亡くすだなんてどんなに辛い事だろう…。
わたしは本当に心から可哀そうだと思った。顔をしわくちゃにして笑うタナカさんは、今頃どんな悲しい顔をしているだろう…と心痛した。数年前に両親を亡くしたばかりのわたしだったから…かもしれない。
しばらくしてタナカさんが出勤して来た時、わたしは緊張した。何と声をかければいいのか…まだまだ人生の経験が乏しかった。結局、言葉が見つからず。
パートの先輩達は皆、わたしより10以上も年上の人ばかりだったので、落ち着いた態度で静かにタナカさんの話を聞いたりしていた。小声で「ああ…そうなの…たいへんやったね…」みたいな感じで。
それなのに、端の方で洗い物をしていたわたしは静かにしんみりした空気の中、あんベラをステンレスのボウルに打ち付けてしまい「カ――――ン」と誤って鳴らしてしまった。まるでお坊さんがそこに居るかのように…。振り返った先輩に「こら」と睨まれる…怖い。タナカさんの顔も見ることができず、ほてった顔で洗い物を続けた。
それから1か月か2か月くらい経ったある日のこと、職場会議があると言う。
今後の店舗づくりについて…みたいな、上層部の人達がやって来ての会議のようだ。ええ…めんどくさ…という気持ち。まあ会議と言っても、わたしなどは話を聞くだけなのだろうが。
お店を開けているから、2部制にして出席するらしい。わたしは決まった時間の作業を終えてから着替えて参加する。残業が付くみたいだからいいか…という気持ち。
ぞろぞろと会議室に人が集まる。細長いテーブルを四角く並べて囲んで、皆の顔がぐるりと見渡せるように配置。その一辺のテーブルに偉いような(あまりお見受けしない)人が2人ほど座って、コピーされた書類を回される。
ふと、向かいのテーブルに座ったタナカさんを見る。作業服のコック服のまま着席している。帽子は脱いでいる。そして、わたしはびっくりした。
タナカさんは磯野浪平のはずなのに、どうしたわけか七三分けの黒々とした頭になっていたのだ!わたしは目を見開いてタナカさんの頭を凝視した。タナカさんはプリントに目を落として、静かにめくったりしている。
シワの多い顔に黒々とした髪は、違和感ハンパなかった。
どうして…どうしてそんなことをするの?

…先輩…!先輩の顔を横目でうかがってみる。先輩もタナカさんの方を見ているようだ!でも、なんだか遠い目をしている…無表情。「ねえ!タナカさんの頭が!」と心の中で訴える。会議の話が眠いのだろうか…それとも既に承知のことなのだろうか…先輩は顔色ひとつ変えない。
他のメンバーも見回してみる。皆、真面目なのか午後の眠気なのか終始無表情だった。会議が終わると、めいめいバラバラ蜘蛛の子を散らすように解散した。
わたしも帰途に着いた。やりきれない思いを引きずったまま。
…どうしてタナカさんはヅラを被ったのだろう。奥さんが亡くなったばかりで…なぜヅラを被りたいと思うのか…理解ができない。しかもあんな「いかにも…!」と言った代物(ヅラ)。
あの時、わたしが心から可哀そうだ気の毒だと思った気持ちが、もしかしたら「間違い」のような気になる。虚しいような裏切られたような気持ち…。
それに、いきなり「黒々とした七三」にすることはないじゃない?徐々に増やしていくって手もあるのに。…ある意味すごい勇気。
わたしはその時30代だったから、考えが子どもだったのだ。だからあの時、誰もわたしに話を振ってくれなかったのだ。
それから10年、15年と経ち…たまに知り合いからタナカさんの話を聞かされることがあった。
定年退職した後も系列の職場で働いていたらしいこと…そこで帽子を脱いだら下のもうひとつの帽子(ヅラ)も一緒に脱いでしまったらしいこと…時々ズレていること…等々を面白おかしく聞かされた。
すっかり(心が)大人になったわたしは、鼻で笑う。「まだ被ってんの⁈アレを」と。
奥さんが亡くなって直ぐにヅラを被るタナカさんの真意は今もわからない。男の人の考えはわからない。
でもきっと…新しい自分になりたかったんだろうよ、前向きに生きていこうと思ったんだろうよ。
知らんけど。


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