大阪からUターンして田舎に住み着いた両親は、親戚から少しの田畑を借りたのだと思う。
家族4人がギリギリ食べていけるくらいの数枚の棚田と、小さな畑を記憶している。
その田んぼも畑も、家からずいぶんと山を登った場所にあった。
わたしが小学4年生の春のこと。
母と兄とわたしは、その山奥の棚田にいた。
山の斜面に石垣が積まれて段々になっている田んぼは、1枚が小さかったり大きかったり様々な形をしていた。
この時期、わたしの大好きなれんげ草が一面に咲いていて、私にとってはこの上ない遊び場である。
母は一面の、れんげ草を鎌で刈り取っていたように思う。
考え事をしながら草を刈っていたはずだ。考え事の多い人であった。
わたしはれんげ草の花束を作り、首飾りを作り、蜜を吸い、れんげ草を満喫した。
日が傾きかけた頃、母は自分が刈り取ったれんげ草を田んぼの真ん中に集め始めた。
そして母は「ベッドを作る」と言い始めた。
わたしも兄も、ぱああっと嬉しくなって、刈られたれんげ草をどんどんそこに運んだ。
「ハイジだ、ハイジのベッドだ!」
ハイジがアルムおんじに作ってもらった干し草のベッドは、当時の子どものあこがれだった。
こんもりと集めたれんげ草の山を、母がベッドの形に整えた。
その上に白いシーツを被せるのがいいのだけれど、シーツはないので、そのまま横たわった。
冷たくしっとりとした青臭い葉っぱと、れんげの花の香りで鼻がくすぐったかった。
…夕暮れの春の空を見上げる。
ここで朝まで眠りたいと思った。
「帰るよ」と言われると、ここは電気もない山奥だということを思い出した。
日は山の向こう側にすっかり隠れてしまい、急いで山を下りなくてはならなかった。
すごくいいものを手に入れたのになあ…。
後日、田んぼのれんげ草のベッドを見に行ったら、しおれてぺったりとなっていてがっかりした。
あんな素敵なベッドを作ったのは、後にも先にもその1回きりである。
今思えば、母のれんげ草を刈る作業は必要だったのだろうかとも思う。
母は田舎育ちとはいえ農作業の知識があったとは思えないし、また周囲のおばさんがはいているモンペをはいて作業を一生懸命にする感じでもなかった。
ただ、れんげ畑で子どものわたし達と過ごしていただけなのではないのか?
それともやはり何か、考え事をするためだったのだろうか。
ハイジが山にいるペーターのおばあさんに持って帰るため、白パンを隠してカビだらけにし、ロッテンマイヤーさんに怒られた件を、母は何度も人に話していたっけ。
当時34歳。
子どものようなところのある母であった。
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