小学校1年生の1学期だけは、大阪のマンモス校で過ごした。
1年生だけで1クラス40名ほどが、6クラスあったと記憶している。
入学して間もない頃、広い広い運動場で、ストップウォッチを持った担任の先生に「チャイムがなったら一目散に教室に帰るように」と言われた。
なのでわたしは休み時間に、広い広い運動場に出て遊んだ記憶はない。
図画図工の授業では、とうとう連れて行ってもらえなかった大阪万博の「太陽の塔」と「ソ連館」を画用紙に描いた。家でも白い紙さえあれば、嫌みなぐらい万博の絵を描いていた時期だ。(兄は遠足で行ったはず。)
もちろんお昼は給食だったが、その後の掃除の時間は6年生が掃除をしてくれていた。
掃除中、いつまでも飲み終わらない牛乳を泣きながら飲んでいる女の子がいて、学校の恐ろしさを感じたものだ。
わたしはスープに入っていた白玉団子が食べられなくて、わざと机の下に落っことし、掃除してくれる6年生の人に「これ、だれ?」と聞かれたけれど「知らない」と言った事がある。
そんな大阪の小学校1年生の1学期であった。
2学期が始まると同時に、田舎の小学校生活が始まった。
同級生は男子5人、女子はわたし含め3人の計8人である。(全校で50人足らずだ。)
なので複式学級となっており、2年生の8人と合わせて16人のクラスだ。
2時間目の授業が終わると担任のおばあちゃん先生が、わたしに「手を洗って来てください、おやつの時間です」などと言う。
わたしは心の中で「なんて優雅な学校…」という驚いた気持ちになった。
アルマイトのボウルに入った温かいミルクと、お皿に3枚ほどのクラッカーが机の上に並べられた。
両手で持って少しずつ飲む。
温かいミルクが優しく、ロンパールームの夢が叶った気がした。
(当時テレビ番組のロンパールームに出てくるおやつの時間のミルクがおいしそうだったから)
でも、そんな「おやつの時間」は2年生になるまでに無くなってしまった。幻のように…。
後から思えば、ミルクは「脱脂粉乳」と言われるもので、当時の子どもたちの栄養事情の改善の為だったらしい。
田舎の学校には給食がなかったので、各自お弁当か、家の近い私などは家に帰ってお昼のメザシなど焼いてもらって食べていたものだ。(なんて自由!)
「おやつの時間」は幻になったけれど、田舎の小学校では行事の折々に何かしら食べ物が出てきた。
クラスごとの小さなお楽しみ会では、各々の机の上にわら半紙を敷いて、その上に先生が袋菓子をバラバラと配ってくれた。かりんとうやビスケット、ラムネ菓子などだったかな。
地味なおやつだったが、友達と学校で食べるお菓子は格別なおいしさがあった。
それらをつまみながら誰かのおかしげな芸や歌、手品などを観るという時間が割としょっちゅうあった気がする。
敬老の日の催しは体育館で、おじいちゃんおばあちゃんに歌や踊りを観てもらう学芸会のようなもの。
それが終わると教室で、毎年決まって炊き込みご飯の大きなおにぎりを1つと、立派な青緑色の20世紀梨を1つもらえるのがうれしかった。
クリスマス会や、ひな祭り会では、体育館でカレーライスやちらし寿司を毎年毎年みんなで食べた。(お皿は家から持参。)
マラソン大会の後は生姜湯が、アルマイトのボウルで配られた。
それらの食べ物がどこで作られるかと言うと、学校の調理室である。
家庭科の調理実習をする場所だが、そこは主に「小柳(こりゅう)さん」というおばさんが毎日お茶などを沸かす場所であった。
こりゅうさんは旦那さんが先立たれたのか独り身だったので、それを仕事としていた。
こりゅうさんが休む小部屋(2畳ほどの)も設置されていて、よく「こりうさん、こりうさん」と遊びに入ったものだ。
その調理室でお母さん方が集まり、賑やかに炊き込みご飯やちらし寿司、カレーライスなどを作ってくれていたのだ。
余談だが…私の母は、そんな行事や集いにほとんど参加することはなかった。
子供の頃はそういうのが寂しかったが、今思えば「嫌だったんだろうな」と、気持ちはとても理解できるので別に恨み節があるわけではない。
小6くらいの運動会の時だったか、お母さんたちとフォークダンスを踊ることがあった。
わたしの母と真逆の化粧っ気のないりんごのほっぺのお母さん(チャックのお母さんなんだけど)が、わたしと踊る番になった時に、
「手が汚いけど、ごめんね」と恥ずかしそうに申し訳なさそうに言ったのだ。
その手はあかぎれで腫れぼったく丸っこくてガサガサだったのを今でも覚えている。
「こんなお母さんがいい」って思ったのに、わたしは首をブンブン横に振ることしかできなかったのが今更ながら残念に思う。
小学校で食べた物は、おいしい、おいしくないではなく、わたしの心と体が健全に育つための物であったと今になって思う。
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