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きもちわるい料理

わたしのこと

 先日、ももちゃんスープを作る時の鶏ガラを、わたしは気持ち悪いと言った。

鶏ガラは胸のあばらから長い首の部分で、形がグロテスクだからだ。

肉(鶏・豚・牛)はもちろんパックに入った切身を買うし、魚も調理済みを買うことがほとんど。

それらは食材として扱い、もとの原形、生きていた時のことに思いを馳せることはしない。

そうしない子どもたち(大人も)を、「知らなくていいのか」と問題視することはわかっている。

でも、わたしの場合、逆に知っているからこそ、生きていた原形をあえて感じたくないのだった。

 幼少期、父親が狩猟を趣味としていて、獲って来た鳥やウサギを解体するのも父がしていた。

解体は主に庭先や、河原など外でやってしまう。

母は、解体場面には現れず、手渡されたその肉を食材として台所で料理をした。あえて見ないようにしていた感がある。

でもわたしは、一部始終を横で見ている子どもだった。

切断された鳥の足を渡され、この筋を引っ張ってみろ、と言われた。

切断された部分から覗いている筋を、親指と人差し指でクイとつまんで引っ張ると、足がクイクイしぼんだり開いたりするのだ。

「おもしろい…」と思うわたしだ。

でも、肉の中に散弾銃の弾が食い込んでいるのを見て、ニヤニヤしている父親はどうかしていると思ったし、息絶えた獲物を触ったらまだ温かく感じて、悲しい気持ちにもなった。

そんなサバイバルな暮らしから抜け出した今、もうあんな場面は見たくないのだ。…トラウマになっているのかもしれない。

だからわたしは、自分に言い聞かせる。

肉や魚はパックのお皿に乗った「食材」だ!

 ある時、大きなスルメイカをさばいていた。

「1匹同じ値段なら大きな物を」と欲張ったのがいけなかった。

イカの頭に手を突っ込んではらわたを引っ張っていると、中から鯵がまるっと出てきたのだ。

その瞬間、食材だったイカが「海で泳ぐ生物」になった。

わたしは「いやあーっ」と悲鳴を上げてイカも鯵も放り投げて、台所から逃げた。

それからしばらくは、イカを買って食べることができなかった…。

なので、お寿司屋さんで活魚の鯵を刺身にしてもらって、「まだしっぽが生きてる!」などと言いながら舌鼓をうつ、みのちゃんの気がしれない。

わたしは魚も肉も、よーく焼く派。

もういっそのことベジタリアンに、なれるものならなりたいわ。風さんのように。

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