60歳になった。
60歳まで生きてこられた…ふう。
わたしの両親は50代半ばで亡くなった。それは二人とも心身ともに不健康であったから…長く生きられなかったのだ。冷たいようだが…半ば自業自得といっても良いだろう。
母も父もたどり着けなかった60代。なんだかここからは「未知の世界」というのは大げさだけれども…人生の新たな道を歩き出した気持ちになる。
わたしのこれまでの60年間は、30年と30年で分けることができる。
わたしが30歳の年に母親が亡くなったから、前半の30年は「娘」として生きていた部分があった。
18の高校卒業とともに親元を離れたのは自然な流れではあったけれど、「この人達と一緒に居たら自分はダメになる」という決断で…逃避の意味もあった。
それでも数年後に両親は追いかけてきた(根っこがないのだ)。逃げたはずのわたしも、まだどこか親離れ出来ないでいたのだろう。再び一緒に暮らすことを受け入れた。…が、やはりそこは再びの「生き地獄」なのだった。…でも、一旦家の外に出れば、わたしにはわたしの世界があったから。(今の)パパや友達…それが救いだった。
その2~3年後、結婚して離れて暮らすことができたが…実際は「逃れる」ことはできなかった。それは、わたしにとっては「苦悩」が続くという事でもあり、実際そうであった。
なにが「苦悩」かって…?両親の心身の不健康さである。根源は両親の夫婦の問題にあったろうから、わたしとしてはどうしようもない。だけど…巻き込まれる…苦しい…。そして母は娘を、娘は母を、互いに心配して執着し、纏わりつく状態。愛憎というのだろうか。
結局わたしができることは、単体で「わたしが幸せ」であることを見せることしかなかった。パパと小さな子ども達を「拠り所、支え」とした。また、それを分けてあげようとしたのだ。未来ある孫は可愛いはずだ。もちろん可愛いと抱っこしてくれた。
それでもある時、母は独り言のように「もう1度家族で暮らしたい…」と言った。その家族とは、母・父・兄・わたしで構成する家族のことだという。兄もわたしも新たな家庭を持ったというのに、母はまだそこに執着するのだ…わたしは愕然として返す言葉もなかった。心の中で「もう…それは無理なんだよ…」と呟いた。
わたしが30歳になった時。母に手紙を書いた。わたしは筆まめな方なのでそれは珍しいことではない。
内容は詳しく覚えてないけれど、『このたび、30歳になりました。ようやっと大人になった気がする。これからはしっかり自分の家庭を大切にしたい。心配しないで。』という「決意表明」のような前向きな内容で、母を喜ばせる手紙であったはずだ。母の反応は「手紙読んだよ」と簡単なもので、どう思ったのか、何も響かなかったのか…それはわからない。
その2週間後、6月1日に母はこの世を去った。
ショックだった。結局助けてあげられなかった、虚脱感。しょっちゅう「家族じゃないの…親子じゃないの…」とすがりつく母を、わたしは足蹴にしたのだろうか…?
同時に「苦悩」が終わった…とも感じた。母もようやく病から解放されて楽になったのだ…と受け止めた。
母の日に贈ったオルゴールの付いた小箱。裏に日付とわたしの名前を記してある。
母が独身の頃から愛用の裁ちばさみ。

ところがでも!亡き母は、わたしの右肩後ろにいつもくっついて話しかけてくるのだ!
台所仕事をしていたら「あんた…それはそうじゃないわぁ」などと、いちいち後ろからうるさく言ってくる。…母の存在が消えることはなかった。
「もう、わかったよ。そこに居たらいいわ。」わたしは母と一緒に生きることにした。
不健康な母が、晩年なかなか感じることができなかった些細な喜びや楽しみ。それを母に「ほら~、こんな楽しいこともあるのよ」と得意げに見せびらかした。すると右肩後ろの母は嬉しそうに笑う。母には思いもよらないだろう事をして「ほら~こんなこともできる」と自慢する。母は「あら~まあ」なんて感嘆する。…そう、わたしは母が経験できなかったことを(できるだけ)しようと決意した。
母は…わたしが拠り所だったに違いない。
子どもの幸せを願わない親がどこにいるだろうよ。(ちなみに3年後に亡くなった父に関しては、母を幸せにできなかったことを、ただ単に情けなく思っている。)
そうやって後半の30年を過ごしてきたように思う。子育てや仕事など大変だったけど…前半の30年と比べれば、幸せな30年だったろう。いや、わたしは幸せでなければならなかった。
これから先の30年(たぶん30年を切っていると思うが…)は、より楽しく面白いことを見つけて暮らしていきたい。
そんな些細なことの集合体が後々「幸せ」だったと思える…わたしの小さくまとまった人生にしたいと思う。


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