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生と死の一線のはなし

わたしのこと

 テレビの向こうの知った人の訃報を聞くと、少なからず動揺する。

遠いところの人なのに昔から知っている人…。テレビばかり観て育ったから…そうしてわたしが60という歳になったからだろう。

否が応でも「死」について考えてしまう。

夕暮れ、西の空。

西方浄土が、あっちにあるのだろうか。

 昨年の5月末に義母が亡くなって…1年半が経つ。

時々、亡くなった時の事を思い返し…考える事がある。

義兄の話によると…『義母は夜中に意識を失って(脳出血)施設から病院に運ばれ、処置が行われた…結果、駆け付けた義兄は一旦家に帰らされた』と言っていた…。『でも、数時間後また呼ばれて…そしたらもう…』という事だった。

義兄の言葉が少ないので大まかにしかわからないが、『一旦家に帰ってよし』という事は、命を取り留めた時間が幾ばくかはあった?ということか。

わたしは、わたしの勝手な想像だけれど、『お義母さんはその時「もうええ」と思ったんじゃないか?』と思うんだ…。生と死の一線があるとしたら…川があるとしたら…光のトンネルがあるとしたら…死の方へ自ら行ってしまったのではなかろうか…と。

それは、生前本人が思うように動けなくなった自分の事を「もう死んだ方がマシよ…」と、静かに呟いていたのを聞いたから…取ってつけて思うのかもしれない。

わたしの心の師の大愚和尚が、若くして生死をさまよった時の体験談によると。

『…酷い苦しみから解かれてとても暖かくて…気持ちが良くて眠くて眠くて…誰かが耳元で何か言ってるけど…もういいです、ありがとうございます。…あ、でもあの人に挨拶しなかったな、残念だな、なんて思ったら目が覚めた』って言ってた。

「死」というのは未知の世界で恐いけど、いざとなったら毎日の入眠のようなものかもしれないな…。その手前の、生きている身体&精神状態が『痛い』『苦しい』『辛い』のだ、きっと。

晩年の義母の生活は、本人にとって決して幸せではなかったように思う。自宅での生活が困難となり、施設入所後もコロナ禍で家族に会えない寂しさ…。最後の方の電話では何か諦めたような、か細い声だった…。

だからといって…現実どうしようもなかった。どうしようもない上に、わたしを含めて家族は、義母の“生きる力“を支える事は出来なかった。

生きていくことが苦痛だと、人は死んでしまう。一線に立った時あっちを選んで行ってしまう。

必要なのは生きていく力。

知識(考えること)、精神(豊かな心)、肉体(健康・体力)。自分でも律する事が難しい…歳を重ねればなおさらよ…でも。でも!

 いつものスーパーの隅っこで、こじんまりと手作り小物を売っていた。

編み物コーナーをふらっと見る。…丸いスツールのお座布が欲しいんだ…。座った時ヒヤッとするから。何かいいのあるかしら…。

編み物が趣味のご婦人方の作品…ベストや、帽子、アクリルたわし、編みぐるみ…。手当たり次第の毛糸で編んだかのような配色なので、残念ながら好みの物はなかなか無い。

地味な配色のを選んだ。靴下もなんだかぽっこり可愛い。

100円引いてくれた。ふたつで800円。

自分の代わりに編んでもらった気持ちがするので「ありがとうございました」と丁寧にお礼を言った。

(回想)53歳であっちに行ってしまった母は、わたしに色々な物を編んで着せてくれたなぁ。

高校の時、バレンタインデーに(パパに)ベストを編んでプレゼントしたのだけど、8割は母が編んだんだっけ。

最後の作品は、わたしと子どもにお揃いのセーター。⤵

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